海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

精神分析

今日から私は講演週間に突入。来週土曜日までに上野原でセミナーをして、山形大で集中講義を三日間して、つくばでセミナーをする。誰しも一生に一度はモテ期が来ると言う。そんな時期(←違う)。

で、今日の上野原。私もクモの研究を始めて13年。主著者としてクモをネタに書いた論文の数がアリ論文の数をやっと上回って、これで私も名実ともにクモ屋を標榜できそう。ということで、この間にわかった事を全て話そうと言う欲張りな二時間。で、その裏テーマは「私は何がしたいのでしょう?」というもの。私の研究スタイルと言うのは一貫して、業界的に空いた小さな穴にネタを落しこんで行く、いわばポテンヒット狙いなのだけど、そういう研究がいくらたまっても大きなテーマを背景に持つ話には敵わないのではなかろうか、と言うコンプレックスのようなものがあって、でも一方で、他者の目で見れば、そういう研究の寄せ集めの中に自分では気づいていない一貫性のようなものが見えてくるのではないか?という期待だな。極めて人任せで無責任な態度と言えるのだけど、今こそちゃらんぽらんが求められている時代は無いと思うわけで、これは自ら率先して時代を切り開くちゃらんぽらんになろうと言う英雄的な行為であると位置づけたい。

で、二時間喋ってから私の悩みを吐露してみたら、そんなの悩まなくて良いやん、と言われて拍子抜け。そうかなあ、とか言いながら、時間も押してきたので場所を風林亭に移して晩ご飯を食べながら話す。で、Y田さんに言われた(と私が思った事)のは、私の話は基本的に情報獲得とそれに基づく意思決定に関する事で、行動生態学の基本的な枠組みの1つが異なる行動を比較してその優劣を評価する事で、これは現在から過去を見ているのだけれど、意思決定と言うのは未来を向いて行う事でこれを行動生態学として扱うのは難しいと言う事。それで思い出したのが、この分野で一時流行っていたdynamic programming。あれは未来から現在を見て優れたやり方を訴求的に求めて行くわけで、未来の事を考えているようで時間の流れ的には後ろ向きである事には変わらないわけだ。いや昔からあの方法には違和感を持っていたのだけど、そういう事だったのか。

そして不確定の未来に向かって行われる意思決定の理解は、本質的にはどのようにして「ここで跳ぶ」に至るかを明らかにする事だと言う話になる。行動学の話からは外れるけれども「ここで跳ぶ」ことは最適性の追求を切り捨てる事であって、それは無限の世界に対して有限の身体しか持たない生命の持つ本質の1つだよなあ、と話が広がったところでお開き。

帰りは駅まで送ってもらって、電車がホームに入ってきたところ。この時間帯一本列車を逃すと長い時間待たされる可能性が高いので、S原さんと駆け込みを試みる。で、私は閉まりかけたドアをこじ開けて乗り込むのに成功したけど、S原さんはスイカに残金が無くてホームの彼我で泣き別れ。置いてきぼりにしちゃったよと罪の意識に囚われながら一人で家に帰ってきたけど、調べてみたらその10分後に後続があったようなので、なんだそれなら私も降りれば良かった。