海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

意外と真面目

自宅にこもってひたすらグラフを作る。STATAの腕前がどんどん上がっていく。ついにありもののコマンドの出力にアドインを使って別の統計量を計算し、それを元にグラフを作る技を身に付けた。行列も操作できる。もうここまで来たらプログラミングまで後1歩じゃないか。何やっとんねんオレ。夕方、というか夜、11月の学会の反省会が開かれるので、元田中に。出町柳の駅から元田中に向かって、あのあたりの細い道を斜めに歩いて行く。あー、なんか若い日の恥ずかしいこととか思いだしちゃったよ。で、反省会。若い人から今回の課題についての貴重な御意見を伺う。今回はねー。いろいろ大会運営で実験したからねー。課題もいろいろあるよねー。ということで、有意義な反省会だったように思われる。個人的には、よくわかってなかったWRCの様子も少し伺い知ることができたのも良かった。って、オレには関係ない話だけどさ。

だから言ったのに

大学の広報を請け負っているPR会社の人からインタビューを受ける。なんでも、教員をメディアに売り込むのでその素材情報として研究の話をしてほしいとのことだ。まあ、大学の本質的な価値は個々の教員が行う研究と教育にあるのだから、PRするのに教員にフォーカスするのは正しい。ふわっとした大学のイメージビデオみたいなのを作っているよりかはよっぽど真っ当である。っていうか、こういうのはもっと早くにやるべきだったのであって、世の女子大不人気傾向に慌てて、今から取り組んだって遅いと思うがどうか。5年は遅いよ。っていうか、ちょうど5年くらい前に、メディアに出られる教員を売り込む活動をした方が良いのじゃないか?と当時の学部長経由で上に言ってもらったことがあるのだが、見事にスルーされたことを私は覚えているよ。というわけでZoomのインタビュー。こんな話しても役に立たないでしょう?と言いつつ、自分の研究の話であれば水を得た魚であるから、好き放題喋る。で、女子大でこんな研究が、みたいなことも言われたので、私から見える大学の風景を話す。私が見ているのだから当然斜め方向からであって、同席している事務方がどう思うかな?ってちょっと考えたけど、まあ良いやと思って話す。ともあれ、これだけ喋れるなら私の認知能力には問題はないと確信する。で、夜、Amazonを眺めていると、私の本が1冊売れたと思われる変化が見られた。で、この変化は実際に売れた時点からタイムラグを持って現れる。そういえば、PR会社の人が私の本を買って少し読んだ、と言っていたなあ。つまりインタビューの直前に買ったってことか。

会議の時だけバカになります

水曜日は教授会の日。学生とそれが終わってから面談しようということになって、1445から始まる会議2つの議題を見て、早ければ16時、遅くても17時には終わりそうなので、その頃研究室を覗いてほしい、と言っておいたのである。で、一つ目の会議は目論見通りさっさと終わったのだが、二つ目のがいつまでたっても終わらない。明日の英語で科学記事読む授業の準備も終わってしまってすることがない。で、イライラが募る私である。そうでなくても早く終わってほしいのに、今日なんか学生が待ってるんだぞ。なのに、言っておかなきゃいけないことを思いついちゃったじゃないか。いやしかし、ここで発言するとその分終わりが遠くなるわけで、もう黙っていようか、いやいや言うべきことは言うべきでは?としばらく煩悶して、やっぱ言おうと思うわけ。で、発言のタイミングを伺っていたところ、あれ?オレ何を言おうと思ったんだっけ?と突然なった。2つ言いたいことがあったんだけど、一つ目がなんかよくわかんなくなってる。え?なにこれ?って、まさかこれはコロナの後遺症のブレインフォグってやつか?コロナ終わってもう2週間以上たつけど、それまで何もなくってこのタイミングでそんな症状が出るなんて聞いたことないぞ?とか焦る。が、一応発言できたのでホッとする。で、結局会議は1715までかかり、終わって焦って部屋に戻って、やってきた学生に平謝り。オレのせいじゃないんだけどなー。で、学生と話している時は、頭は普通に回って、有意義な面談になった。ということで、教授会で経験した認知の乱れはあれはいったいなんだったんだろう?教授会の時だけ生じるブレインフォグであれば、辛さを忘れられたり、あいつは無能だからと認識されて仕事が降ってこなくなったりするかもしれず、それはそれで都合が良いのかもしれんのだが。

三河屋

11月は学会があったりコロナで臥せっていたりしてあまり活動できなかった。ということで、やっと今ごろ新米の精米と相成ったので、4kgほどミシマ社に持っていく。重いので、最寄り駅まで来るまで送ってもらって、京都駅からはバスという算段だ。が、2時間目の直前につくいつもの時間帯だとバスが混む。このバスはほぼほぼ学生しか乗っていないので、ぎゅうぎゅうに混んでいる状態だと怖くて乗れない。それで、それより30分ほど早い時間の列車に乗れば空いたバスに乗れるであろう、と。ところがバス停に着いたら女子大生の長蛇の列。アカンこれはもう乗れない、と思ってやむなくタクシーで大名出勤。つらい。で、授業して夕方ミシマ社に。お届けでごんす。そしたら、最近本屋を始めた友人の話を振られる。聞くと私が来る直前にその友人から私の本ともう一冊の注文があったらしく、そのもう1冊もその友人との因縁のある本であって、そういう注文があった直後に私が来るというのもすごいタイミングだな、という話になる。それはともかくこれでお届けも3回目なのだが、これまで2回は玄関でお渡しして帰ってたところ、今回はあがらせってもらってお茶にお菓子までいただいて歓待を受けた。おお、これが大人の効果というものか。で、うれしくなって30分ほど無駄話をしたので、その後の伸ばし博士に着いたのがギリギリになったよ。

偽相関には厳しいの

パリテを実現すると議会が良くなる、と言っておられる某有名人氏とTwitterで少しやり取りをした。こういう見方は割と広がっていて、既に10年以上パリテ状態になっている某自治体議会の議員であるところのヨメサンにもときどきマスコミから取材が来るのだが、この議会は決して質の高いものとは言えず、ヨメサンは取材に対してよく「女性が多いから良くなるわけでは必ずしもない」と言うことになる。それで結局取材はボツになったりするのだな。なのでウチとしては、この見方が広がっていることに微妙な気持ちを持っている。そんなわけで、その見方の発信源の1つと目されるその方に「ウチの議会も見に来てほしい」というようなことを引用RTしたのだな。そしたら返事が返ってきたのである。で、そのやり取りは、住民参加が重要、というところに収束していった(と私は理解した)。で、私としては、「そうだろパリテは住民参加を通じて議会が良くなったことの結果だろ」、と思ったわけだ。そして住民参加で議会が良くなるには時間がかかるので、見捨てないで育ててくれ、というような言葉ももらったのだが、そういえばもうこういうことに関わり始めて10年近くなるなあ、と思ったという。

お呼びじゃない

近所に今年から使われなくなった田んぼがあって、来年から貸してもらえることになった。で、さすがにウチだけだと広すぎて扱いきれないので、ヨメサンが知り合いに声かけて、新しい場所は数家族で一緒に米作りすることになった。といっても1年放置してあったので草ぼうぼうに伸びているので、とりあえず集まって草刈りからやろうということに。私は多年草を掘り返そうとシャベル持参。で、1時間半ほどやってみて、5アールほどある全体の1割くらいを処理できることがわかった。これなら、人力でもできないことはなさそうだ。午後、駅前でウイスキーフェスティバルというのをやっていて、贔屓にしている近所の一軒家イタリアンがデザートを出しているというので覗きに行く。で、食べ物はそこで買えるから良いのだけど、メインのウイスキーフェスの飲み物がほしいと思ったら3500円で3杯飲めるチケットを買うしか方法がない。で、1杯ならともかく、昼間っから3杯も飲みたいとは思わないので、食べ物だけにするのだが、なんだかなーと思うわけですよ。どうしてわざわざ不便にするかな、って。で、会場には動員されたと思しき役場の人がたくさんいたので(見たところ1/3くらいいたんじゃないか?)若手の一人を捕まえて、1杯から飲めるようにしてくれたら良いのに、と言ってみたら、「この条件でも参加してくれる人だけを相手にするイベントなので」と返されたのである。なんじゃそれ?と思ったことはいうまでもない。で、ヨメサンに聞くと、なんかアーリーアダプターを呼び込むのが行政の目的らしいよ、と解説を受けたのだが、それが本当だとして、アーリーアダプターってのは、他の人がまだ気がついていない面白いものに目鼻が聞く人のことをいうのであって、イベントへの参加の敷居をあげるのはアーリーアダプターを呼び込むのとは関係ないんじゃないかなあ?と思って釈然としなかった。っていうか、これ役場が独善に陥ってるようにしか見えなくって、それは失敗の王道なのでは?

道案内

聖地巡礼リターンズ」を読んだ。内田樹釈徹宗隠れキリシタンの跡をたどる本。隠れキリシタンというと長崎だけど、それに京都と北摂の話もついてくる。って、これまるごと私のなわばりじゃん。読まないわけには行かない。というのは表向きの理由で、実際は秘かにファンであるところの下妻みどりさんが同行しているというのを知って、それで読んでみようと思ったのである。下妻さんの文章、なんか私のツボにハマって好きなんですよ。なのだけど、この本にはあまり載ってなかった。まあそれはともかく、中身はというと馴染みの場所が次々出てきて、それだけで喜んで読んじゃうっていう。いやそれはともかく、隠れキリシタンや殉教の話には、どうしても惹きつけられてしまう。今度はこの本と「11月18日を歩く」を持って長崎を歩いてみたいと思った。