海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

誤字から始まるある教員の憂鬱

採点は終わったけれども、もう少しこの話を。私は試験では一貫して記述式の問題を出し続けている。ということで誤字脱字で溢れかえった答案を読み続けるわけだが、例えば「血縁」と書くべきところを「血緑」と書いてしまうのはわからないでもない。きっと彼(彼女)は、「緑」という字は見た事があっても「縁」という字を意識した事はないのだろう。で、その見た事のない「縁」に初めて対するに当たって、自分の持っている知識の中で最もその字に似ている「緑」を無意識に援用したのであろう。無意識だから誤字に気がつかないという。この解釈が正しければ、「縁」と言う字がある事を気付かせることで、もう間違いは犯さなくなる。。。はずだ。

当惑するのは、問題文に書かれている単語にも関わらず誤字脱字が現れる時だ。例えば「ホンソメワケベラはこれこれこういう生態をしているのだけど、その理由について説明しなさい」といった問題を出した時に、「ホンワケベラは、、」と言う答案があったりする。多分「ホンソメワケベラ」は試験で初めて出会った語なのだろうけど(それはつまり授業に出ていないことを意味するのだが、ここではそのことは問わない)、知らないなら知らないままで書き写せばよいのだが、それができていないわけである。

問題は、なぜできないのかと言う事である。これは巷間言われているような、学力低下とは関係が無いだろう。いくらなんでもカタカナの「ソメ」が読み書きできないわけではないはずだ。で、ここからは完全に邪推の領域なのだが、彼(彼女)は知らない言葉に出くわした時に、それを認めたくないんじゃなかろうか。語を書き写すためには、そこに注意を向けなくてはならないが、それをしてしまうと自分がその語を知らないと言う事に否応なく直面しなくてはならない。そこで、それを避け、良く見ずに書き写そうとして失敗する、というそういう筋書きだ。

もしこれが当たっているとすると、厄介だといえる。このメソッドの肝は「自分が知らない事を認めない」事にあり、それはつまり「学び」ができないと言う事とほぼ同じだからだ。さらに考えたくない事に、こういう人が本当にいたとして、今の私には教員としてその人に働き掛けるべき有効なやり方をチラリとも思いつかないのである。ここにおいて、「こういう人がいないという事にできればなあ」というのは、確かに魅力的な考えである事がわかるのだが、それにしてもしかし。