海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

リジェクトクラブ

昨日呼び止められて話をした学生さんは「先生の講義を聞いていると、最初はふんふんとわかったような気になるんだけど、後から良く考えてみるとさっぱりわからなくなる」と言っていた。教養の講義なので、わかりやすいところだけをつまみだして喋っていて、そんなわけだから個々のトピック同士の関連性とか考え始めると、わからなくなるのはある意味で当然である。でもまあ、全然分野違いの学生さんに後から講義の事について考えさせているのだから、教養科目としては十分にその目的を達していると言ってもよかろう。。と、昨日の事をぼんやり思い出しながら考える。


論文を書くために過去の文献を改めて読み返してみると、今回の私の結果はこれまでクモで一般的に見られていた現象と逆を向いていることに気がつく。なんでこれまで気がつかなかったのかしら、よっぽど私は日々ぼんやりと暮らしているに違いない。ということで、結果の面白みは増したのだけど、逆に言うと先行研究に沿った位置付けが出来なくなるわけで、原稿を書く際のハードルは上がったことになる。うーん、この原稿もまた何度もリジェクトを繰り返すのだろうか。

この手の学術論文は、同業者による内容のチェック(査読という)を経て出版の可否を決められる。で、当然ながら掲載を拒否される事もあるわけで、それをリジェクトと言うのだが、これをやられるのは決して気持ちの良いものではない。例えて言うと意中の人に告白して振られたような気持ちになるのである。そんなリジェクトだが、研究生活をしていると避けては通れない。しかし、要は気の持ちようだ。どうせ避けられないのであれば、それをポジティブな物として捉え直して、リジェクトされたときの精神的ダメージを小さくしようとするのが前向きだ。

ということで、私は京都に住んでいた頃に屁理屈を思いついたのである。「独創的な研究をしていると、同業者と言えどその結果を正しく理解できるとは限らないわけで、どうしてもリジェクトされる頻度が高くなる。逆に言うと、リジェクト回数が少ないと言う事は、研究内容が凡庸なものであるか、もしくは査読者と著者がみな顔見知りでリジェクトが起きにくい馴れ合いの世界で暮らしているかのどちらかである(文句のつけようのない素晴らしい論文ばかり書いている可能性もあるけどさ)。つまりリジェクト回数の多さは、決して恥じるべき事ではなく、むしろ誇るべきなのである!」

もちろん、この主張の弱点は、リジェクトが論文の独創性を保証するわけではない事なのだが、そこのところは目をつぶろう。要は気の持ちようだ。

で、「リジェクトは善だ」をモットーにみんなでリジェクト回数の多さを自慢しようという趣旨のリジェクトクラブを主催し会長に納まっているのであるが、残念な事にこのクラブは多数の会員を誇ると言うわけではない。

で、今書いている論文も、なんとなくリジェクトクラブの会長に相応しいものになるような気がしていて、うーん困ったなあ。。。って、いやそうじゃなくって、えーっとえーっと。