海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

ネジ巻き

2018年は、自分が主著者である論文を一本も出すことができなかった。痛恨である。ヨメサンの支援に手をとられ過ぎたのが原因だ。ワークライフバランスをもっとちゃんと考えねばならない。ということで、この冬休みの間に、書きかけの原稿を何とか完成させるぞエイ!と、自分を追い込んでおこう。なんせこの原稿、データとったの2010年だぜ。まだ東京(多摩だけど)にいた頃じゃん。ええ加減成仏させないと。いや、しかしわかってるのよなぜ私がこの原稿にこんなにぐずぐずしてるかっていうと、今回の話が行動データじゃなくって生態データを扱ってて、かつ実験じゃなくて観察データだからなんだよな。ので、どうしても強い主張がしにくくって、それでグズグズいってるのよね。そうこうしているうちに、行動データで論文になりそうなものがたまって既に二本追い越されていて、最近後一本の構想ができつつあるのよね。さすがにもうこれ以上遅らせたらあかんわ、と、やっぱり自分を追い込んでおこう。

新編 ワインという物語

大岡センセの「新編 ワインという物語」を読んだ。いつもありがとうございます。本書は、天下にとどろくグルメかつ呑ん兵衛であるところの大岡センセが、聖書からドン・キホーテまで、ヨーロッパの古典を、当時の人のワインとのつきあい方、という観点から切って行く本。章間にゆかりのワインのテイスティングのコラムつき。2000年に新書として出版されていたものの加筆新刊である。ということで、中に挿入されている筆者写真が若い!とビックリするのだが、そりゃそうだ私と前の職場で御一緒するより前だものなこの写真。で、本の中身であるが、ワインと人との関わりということなので、当時の人々の暮し方から社会のありようとかについての解説が多くて、そうなると文学というよりむしろ歴史の話みたいに見えるところもあって、へー、ほう、なるほど、ワインから歴史を語るとこうなるのかあ、みたいな驚きがあった。イギリスとボルドーの関係とか百年戦争との関わりとか、無味乾燥な教科書読むのとはまったく違っていて、面白いったらない。歴史も人の営みなんだなあ、と思って、そうか、だとしたらこの本は歴史に対する文学的アプローチでもあったりするんだな、と思ったり。あと、ギリシアではワインを海水で割っていたという話にビックリしたり。とにかく、いろいろ面白いネタ満載で一気に読めた。つうことで、またどこかに美味しいワイン飲みに連れてってください>大岡センセ

 

新編 ワインという物語 聖書、神話、文学をワインでよむ

新編 ワインという物語 聖書、神話、文学をワインでよむ

 

 

底抜け

いよいよ年の瀬。今日は近所の人とウチで忘年会。お客さんが来てくれるとウチの中をキレイにしようという動機が生まれるので、この年末に大変ありがたいのである。つうことで、朝からヨメサンとお片づけ。食べ物は持ち寄りなのでウチは例によってピザを焼くのでその材料買い。昼からヨメサンは某勉強会に参加で私は畑にニンニクの様子を見に行く。で、18時ごろからボチボチ人が集まり始めてなんとなくスタート。人が来たり出たりしながら全部で20人はいたかしら。途中ウトウトしたりしながら、翌朝の5時まで半分くらいの人が残ってた。すげえ今までで一番長い宴会だったよ。東京(多摩だけど)にいたときは、駅前で3時くらいまでザラに飲んでたところ、関西に戻ってきてから終電越えて飲むことがだいぶ減って(しかし最近タクシー帰りを覚えたのでやばみが増している)いたのだが、そうかウチで飲めば別にいつまででもできるんだな、という気づき。

背徳の内職

ヨメサンは3ヶ月に一度開かれる議会が終わるたびに、内容を報告するニュースレターを作って全戸配布を行い、また公民館で公開の議会報告会をするのを今のところ欠かしていない。えらいもんだ。ということで、今夜は議会報告会の日。私も徴発されて、会場の後ろに鎮座。公開の会なので、万一変な人が入ってきた時の用心棒に、とのことだ。色男だから力ないんだけどなあ。といって、実際変な人が入ってくることはないので、論文読みをしてカタカタキーボードを叩くのが仕事だ。こういうシチュエーションって、妙に集中できるのよね。つうことで、読んでるものの中に、1つ大きな欠陥を見つけてしまった。これ、考えようによっては、この研究全体が成り立たなくなるようなもので、でもなあ、この結果自体は、もし本当だったら面白いんだけどなあ。この欠陥から生じるもう一つの解釈を潰すようなデータを出すのを求めるのが筋だろうなあ。

数と量

ひゃっほう今日で年内の授業は終わりだぜい。幸せである。あとは年明けに8コマを残すのみで、そのうち1つはまとめなので、半年を振り返ってダラダラ喋るだけでよく、もう1つは卒論提出で最終確認してハンコつくだけ、さらに1つは学生に書き物させるだけなので、実質私がやらなきゃならないのは5コマだけ。うれしー。で、今年最後の授業では、ミツバチがゼロを数として認識している、という英文記事を読んだ。何もないことと、それをゼロとして認識している、ということは違うのだ、ということを説明するのに苦労するかな、と思っていたけれども、一番わかってもらえなかったのは、ミツバチに4個のアイテムと2個のアイテムを見せて後者を選んだ時に報酬を与えて学習させる、という話で、4個のアイテムと2個のアイテムで視覚的刺激の量、つまりアイテムの総面積を同じにする、というところだった。これも、抽象的な数と量を独立にして考えることだから、何もないこととゼロの認識とが違う話と同じだと思うんだが、どうして片方はわかるのにもう片方はわかりにくいんだろうか。

義満

昨夜から今日にかけていくつかうれしいお誘いがあった。そのうちの一つが、出身研究室の大先輩であるところのW田さんからのもので、博物館関連のNPOの理事になれ、というもの。私は基本お誘いは断らないので、もちろん受けるところであるけれども、最初のお誘いが私を大先生呼ばわりして来たのが気になる。私の出身研究室というのは、教授であっても先生と呼ばない文化のところである。そこを大先生呼ばわりするというのはこれは明確な攻撃であるからしてスルーするわけには行かない。ので、「もう二度と大先生呼ばわりしないなら、理事になっても良いよ」と答えたわけだ。どうだ。そしたら、W田さんたら「ありがとうございます。大大先生。大一つでは足らないとは失礼しました」と来たもんだ。これには反論できない。ぐやじーーーーー。というわけで、得るものが何もないのに理事を引き受けることになった。ってか、最近、まわりにいる人は心根の素直な人たちばっかりなわけで、出身研究室の生き馬の目を抜く度合いをすっかり忘れてたよ。夜、烏丸錦でヨメサン上の子と合流して居酒屋で晩ご飯。シネコンならぬ京都シネマで一週間だけやってる「遊星からの物体X<デジタル・リマスター版>」を見る。オバQは正しかった!という話。いやー、救いのない話で最高だよな。改めて見てみると、影を多用した絵作りが面白いよね。