海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

英語と私

ちょっとずつ読みかけてはほかっていた本をどんどんこなした日。まずはジャレッド・ダイアモンドの「昨日までの世界」。まあ色々書いてあるけれど、全体的には「ふーん」レベルで、細かい知識の点では知らないことも多く面白いんだけれど、前二作にあった概念のフレーム部分をがつんとやられるような面は薄い。いやでもそれは、我々の様々な特性が過去に生じた自然選択の影響を受けていて、現在の環境とは必ずしもマッチしているわけではないと言う概念が私に取ってなじみ深いものだからなのかもしれないけど。

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

次は「英語教育、迫り来る破綻」。大学入試などにTOEFLを使おうという最近の自民党の案に対する強烈な批判の書。過去の改革の成果などについてエビデンスがきっちり示されているというわけではないので、筆者らの主張の評価に困るところなのだけれども、「そもそも中高6年間の1000時間ほどの学習時間で言語構造のまったく異なる英語を自在に扱えるレベルにまで習得できるはずがない」というのは、実感としてまったくその通りと首肯かざるを得ない。そのうえで、「本来中高での学習は、今後英語が必要になった人が自分で学べる基礎を作るためのものなのだ」と言われると、そうかそうだったのか!と目から鱗が落ちる(いや恥ずかしながら、私も中高6年での目標は英語を普通に扱えるようになることだと思っていた)。だから学校であんなに英語の授業を受けたのに、オレはちっとも喋れるようにならなかったじゃないか!という多くの人がつける難渋は筋違いなわけだ。いや、教育する側が「ここまでしかできない」って事をもっとちゃんと言うのは大事だと思う。あと、現在の小学校における英語が、英語の習得を目的とするのではなくて、広い意味での言語能力の向上を目的とするのだ、というのも門外漢的には驚きだった。なるほどそういう風に小学校英語を位置づければ現有勢力でも対応可能だし、理念的にもおかしなことにもならない。だからこれを教科化しようという動きはこれまでとはまったく違う性質のものだ、と言うことなのだな。なるほど。「昨日までの世界」でバイリンガル教育について肯定的な事が書かれていて違和感を持ったのだけれども、こちらを読んで、そういう面への理解が少し広がったような気がする。それから、教育に関する政策提言をする側が思いつきのようなことばかり出してくるのを止めて、もっと現状分析をちゃんとしてから物を言って欲しいという点は、英語だけじゃなくすべてに当てはまることだと思う。

英語教育、迫り来る破綻

英語教育、迫り来る破綻

そして三冊目は「オーストラリアで暮らしてみたら。」だ。うーんと、秋に向けての予習、、、というか、ヨメサンが買って、見せ本棚に並べてあったものを何の気なしに手に取ってみたら面白くなって読み耽ってしまったと言う。見せ本棚に本を並べているのは、子供に面白い本を読ませるためのトラップなのだけど、オレが引っかかってどうする!と言う。で、これは柳沢さんが家族でオーストラリアに移住した最初の1年に経験したことを軽妙に綴ったエッセイ。私は日本が好きだから多分そうはならないんだけど、でも昨今の社会情勢を見るに外に出ることについて頭の体操くらいしていてもバチは当たらないだろうと思っているわけだ。そういうときにはやっぱりオーストラリアだよなあと思っていて、この本を読んでもウンウンやっぱりオーストラリアだよねえと思うと言う。昨日も書いたけど、私の英語運用能力は話す聞くにおいて極めて低いレベルにとどまっていて、まあそこにコンプレックスが無いと言えばウソになるのだけど、上の本を読んで、そりゃできないのは当たり前だと思って少し気が楽になったことでもあるし。

オーストラリアで暮らしてみたら。 単行本

オーストラリアで暮らしてみたら。 単行本