海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

変化

やっと晴れたので、久々にクモ採り。ホントは昨日採りたかったのだけど、雨が痛かった。で、二時間歩き回ったけど成果はオス一匹。去年の記録によるとこの時期はわんさか大人が出ていたはずだが、長雨で何かおかしくなっているのだろうか。ともかく、このオスと先週採ったメスをカップリングさせたいのだが、このオス妙に小さいんだよな。大丈夫かな。どうでもいいけど、採集途中で会ったノラネコに妙に甘い声で鳴き続けられて、連れて帰りたい衝動と戦うので大変だった。

本来今日は一日自由なはずだったところ、午後から用事があって勤務先に。まあ、予測はしていたとはいえ本当にこんな展開になるんだったら、結局セレモニーではないか。目の前の情報を全て利用して意思決定すれば道を誤る可能性は最小化できると思うのだが、なぜ先に結論ありきでそれに合わない情報に目を瞑る人がこんなに多いのか。

夜になって帰り道、このまま今日も梅田ヨドバシまで行ってやろうかとちょっと思ったけれど、なんかしんどくなってきたので今日はウチで様子を見守ることに。で、福山議員の大演説に涙でてきたり、山本議員の一人牛歩に勇気付けられたりしながら、成立まで見続ける。私もここずっとデモに行ったり集会に参加したりとそれなりの時間を投入してきているわけだが、ここ数日の議会の様子を見ていてそれが無駄ではないことがはっきりしてきたように思うのだ。この間、いくつもの名演説が行われたが、そこにあるパッションは市民の意思表明の裏打ちあってこそのもの。そして、彼らの使う言葉にも、院外で叫ばれる内容がはっきり影響しているわけだ。そして、採決スケジュールの度重なる延期は、野党議員だけでなく与党議員も外を無視することができなくなってきていることを示していると思われる。今回は最終的に規定方針通りの結果になってしまったが、この経験を経て議員と民意の繋がり方が本質的に変わってしまうだろうことが期待できる。一部の議員にはすでにそれが起こっていて、その変化に対応できない議員は生き残れない、というようになって行くのではなかろうか。民意の裏打ちある議員の意思決定、本来の意味での代議士の成立だ。皆が言う、これは終わりではなく始まり、というのはそういうことかと私は思うのだ。というわけで、コストはかかるが意志を表そう。子供の頃に習った「不断の努力」という言葉の意味がやっとわかった2015年9月。

さて、それはいいのだが、問題はこの先だ。

それにしても、社会が豊かになってもう歴史は消滅したとつい半年前まで思っていたのがウソのようだ。