海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

先生との会話

今日は退任された恩ある先生がやってきて部屋でお話をした。テーマは「真実をねじ伏せる人」


いや、大体において尊敬すべき年配の先生が私とお話をしてくれるときは、十中八九ちんぷんかんぷんな禅問答におちる。今回のテーマにしても、先生がそう言いたかったかどうかは定かではなく、私がそう解釈したのである。


それはともかく、世の中には「真実をねじ伏せる人」がいるのではなかろうか。一方にいるのは「真実に服する人」。以前から、「真実を自分の都合の良いようにねじ曲げる人」がいるのは薄々気がついていたが、それは「真実をねじ伏せる人」の一つの形態なのではないかと。つまり、ねじ伏せ方にも色々あって、解釈レベルで行なう人もいれば、本当に真実を変えてしまおうとする人もいると。


例えば、人は必ずいつか死ぬ。これは真実で、「どうせ死ぬのだからせめて好きに生きよう」と考える人もいれば、先端医療の研究にもっと金をつぎ込めという人もいる。そう考えれば、確かに真実は少しは変えることが出来るし、社会の進歩はそんな「真実を変えようとする人」のおかげだと言えるのかもしれない。


しかし、今日ふと思ったのだ。「真実を変えようとする人」は、真実が変えられなければ容易に「真実をねじ曲げる人」に変わるのではないか。もし両者の根っこが同じだとすれば。


真実は真実だ。それは私たちの都合とは関係なく存在する。だから、私たちは真実に服する事にもっと長けなくてはならないのではなかろうか。