海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

科学の御旗でござい

スティーブン・ピンカーの「人間の本性を考える」を読んだ。ヒトの心は進化の過程で刻印された遺伝的な傾向をいくつも抱え込んだものであって、社会的に自由に書き換え可能なものではない、と言う事をくどいほどに主張している本。以前に読んだ「心の仕組み」とは違って、現在の科学的知見の紹介を遥かに踏み越えて、しつこくしつこく同じ主張を繰り返す上中下の3巻構成。特に上巻と中巻の前半までは、敵憎しの気持ちの現れか過剰にギスギスした内容で読んでてどうも座りが悪かった。私もこの本が敵と見做している人達の言うことには賛成できない事が多いのだけれど、かといってアメリカンドリームを描くハリウッド映画を彷彿とさせる本書のスタンスだって、手放しで受容されるようなものでもないと思う。っていうか、世界を「こうである」と見做しがちな人と「こうであるべきである」と見做しがちな人には遺伝的な違いってないのかしら?もしあるのだとしたら、「こうである」派が「あるべきである」派を説得する試みは元々効を奏さないものだったりして?だったら前者がとる現実的方策は後者を社会的に封じ込める事だってな議論に進んでいったりしないのかしらね?

しかし、同じ家庭で育つ子供の類似性は、遺伝的な要素で説明できるのがほとんどであって、生育環境を共有する事で説明される部分がほとんどないと現在はされているというのには少し驚いた。なんか直感的に受け入れたくなくって、その結論って量的遺伝学の手法の問題点をもうちょっと割り引いてから出した方が良いんじゃないの?とか思った。いや、メソッドの詳細を知らないからよくはわからないんだけど。っていうか、普通の親は「他所様に迷惑をかけない人になってくれれば」ってな感じに、自分の子供を小さな枠に押し込めようとするよりも、社会的に許容されない部分を排除する方向で子供に影響力を行使しようとするんじゃないかしら。排除された部分以外では子供の性質はばらつくわけで、類似性ベースで環境の影響を計測しようとしても、検出されないって、そういう話である可能性はどうなのよ?

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)