海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

たとえ話

長崎に住んでいたからか、隠れキリシタンの事になぜか心引かれてやまない。特に、彼らが自分がよしとするものを守るために、隠れるという行為に出たところが私の趣味と合う。決して他人事ではない。で、彼らは、日本が開国して宣教師が再び大浦に現れた時、自らが何ものであるかを露にしたわけだけど、その気持ちは私には良くわかる。ずっと日陰に置かれていたって、いつか理解されるだろうという気持ちはずっと持ち続けているわけで、宣教師が来たら「今がその時だ」と思うのは当然だ。

でも、歴史は告げるわけよ。そんな浦上の信徒たちは、結局弾圧されてひどい目に遭ったのだな。だから、チャンスに見えるものが己の願望の反映である可能性については常に頭に置いておかなきゃいけないのだよね。

と言う事を、どうしても逃げられなかった場で考えた今夜であった。