海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

おらが治外法権

久しぶりに研究室に出かけて、昔撮りためた写真からデータ起こし。色々バタバタしていてここ数ヶ月ほとんどデータに触る機会がなかったので、なんだか新鮮。

昨日の会で、誰もが知ってる有名な旅行本関係の人と話をしていて、最近はバックパッカーがほとんどいなくなったと言う事を聞く。そう言われるとこないだのパースでも、大きな荷物をしょっているのはたいてい韓国語や中国語を使う人たちで、日本人の若いのはほとんど見なかった。で、「最近の若者は代わりにボランティアをする」という話になる。昔の若者は荷物をしょって自分探しの旅に出たのだけど、今はボランティアの現場で本音をさらけ心の触れ合いをして涙を流す事が自分探しになるらしいという事らしい。で、本音を晒すのは日常生活でやればいいのにねえ、という話になって、いやでも確かに今の若い人と接していると、迂闊な事を言って足をすくわれる事を極度に恐れているように感じるという話をする。

そんな今日、「いじめの構造」という本を読む。この本では、多数の生徒を一カ所に押し込めて強い同調圧力をかけつつ、外部の参照すべき基準から切り離された状態で自治を行う学校という制度にいじめの一因をみている。この様な集団の中では、何を良しとして何を非とするかが、明示的なルールではなく、その場のムードや声の大きい人の気まぐれによって決まる。このため多くの人は、自分の行動基準に明確な指針を持つ事ができず、互いの顔色を読み合い浮き上がらない事を最優先させる。本書はこれを中間集団全体主義と呼ぶが、ここで少数のつるまない人間の存在は、その集団の成立原理に対する挑戦となるわけで、激しい排除(ないしは集団への帰依の要求)の対象となり、それがいじめであるという。

これが当を得ているかどうかは私にはよくわからない。確かに、周りからズレがちだった私にとって学校は必ずしも居心地の良いところではなかったけれど、一方で本書が激しく攻撃するような小権力者の無法支配がまかり通る強制収用所としての学校というのも、少なくとも私の経験からくる実感とは合わない。だけれども、もしこれが当たっていて、今の学校は私が通っていた頃とはずいぶん様相を異にしているのだとしたら、上に書いた最近の若者の過度な警戒ぶりの理由も理解できるというものだ。

ところで、この内容を語るのに、持ってまわった新用語やシェマ図は必要ないと思うのだがどうだろう?シンプルな事をわざわざ難しく言い換えているだけのように見えるのだが。。。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)