海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

かゆかゆが頭から離れません

「たすけて、おとうさん」を読んだ。実は7月の終わりに手元に届いていて(いつもありがとうございます)、最初の二編を読んでこれはじっくり読まなきゃ、と思っているところで怒濤のこの一月に突入。学会大会も終って、やっと読む時間が取れたので残りの作品(短編集なのです)を読み終える。

人間と言うものはここ数百年ほどでそれほど進歩しているわけでもないので、たとえば文学作品の中で人間についての新しい理解が出てくるところに出くわすなんてそうそうあるものでもないと思う。まあだからといって、古典だけあれば文学はもう要らないのかというと、そうでもない。テーマは同じであっても、それを現代の言葉で繰り返して語ることで、より切迫性を持って受け手にそのテーマを伝えることができると思うわけだ。音楽にはカバーバージョンがあり映画にはリメイクがある。で、この本は、小説でちょっと変わった形でそれを試みたものだろうと思うのだ。12編ある短編のそれぞれに、例えばピノキオだったりカフカの変身だったりという本歌があって、その一部が引用されながら、それとパラレルな話が現代を舞台に震災や経済問題やアイドルの話といった社会問題とも絡みながら語られて行く、というそういう形式だ。

それぞれの話は当たり前だがいろいろ違っているけれども、全体としては「前世代の呪い」みたいなものが底流として一貫して存在しているように思われた。呪いというと言い過ぎかもしれないが、決して両手を上げて歓迎すべきものとも言えない前世代が残した影響。現行世代はこれに苦しめられているのである、と考えれば、これはまさに今の社会の事を述べてドンピシャリである。ちゃんと前の戦争の事を精算しといてくれよう、とか、たくさん放射性廃棄物残してくれちゃってよう、という。やはりこれは古典を読むだけでは得られない理解だろうと。

12編あるお話だが、最初の数編は主人公(というか子供側)の閉塞感がとても強い話に感じられたが、後半に進むにつれて、主人公が解放される話が増えて伸び伸びした話であると言う印象が強くなった。これは意図的な配列なのか、それとも雑誌掲載順だとしたら大岡先生の心境の変化を表しているのか、どっちだろうかしら。

で、私的に好きな話は、「ちんちんかゆかゆ」は置くとすると、「イワンのばか」を底本にした「悪魔はだれだ?」と「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」がネタの「うそつきは何の始まり?」の二つだ。どちらも主人公の心が空っぽなのがとても素敵。あと、「変身」を元にした「硬くてきれいで無慈悲で」はそのSFチックな話の展開が面白かった。

ということで、表紙もかわいらしいこの本、皆さんもどうぞお読みください。

たすけて、おとうさん

たすけて、おとうさん