海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

同じ穴のムジナ?

毎日新聞ライブドア堀江社長のインタビューが載っていた。

ライブドア:堀江社長の一問一答・要旨
私はこの辺の事情には疎いのだが、

−−新聞は情報に責任を持ち、読者からの信頼感を得る。信頼感が重要だと思うが。
という質問に対し

今のジャーナリズムに問題点があると思っているのはそこなのです。(残虐な)映像を見せたら、子どもたちは嫌な思いをするだろうとか、いろいろ思うわけです。親の気持ちになって「これは見せないでおこう」とするのは、どうなのだろうと思う。出してすごく問題だとなれば、メディアとしての信頼性を失うから失地回復すればいいじゃないですか。要は何でもスクリーニング(取捨選択)してしまうことはいいのか。それがインタラクティブ(双方向)性がない時代、要はインターネットがない時代は、見せてあとは知らんふりすることができたかもしれない。今はまずいことならば、袋だたきに遭ってしまう。もし(残虐な)映像を見せて、反発が多かったら、ディスカッションをしてもいい。世論調査をして50%以上が悪いと思うならば素直に謝ればいい。「こんな結果が出ました。申し訳ございませんでした」とはっきり言えばいい。そういう時代になってきているのかな、と僕は思っている。双方向のコミュニケーションができている。メディアのあり方も変わっていかないといけない。途中でスクリーニングをかけたり、バイアスをかけたりすることは必要なのか。それは読者が判断することではないか。今は判断できる時代だと思う。記事をランキングシステムにして、アクセスが多い記事が見出しが大きくなるとか。インターネットはいくらでも記事を出せるのだから。いくらでも深く読めばいい。そこから、いろんなところにつながっていく。記者の判断だけで1面トップに載せるのが本当にいいのか。価値判断はユーザーがすべきだと思う。
と答えたり、
僕はコントロールしたくない。純粋な媒介者であるべきだと思うんですけど。ありのままの事実をそのまま伝えるのが、いいんじゃないんですか。これからのメディアは本来の位置に立ち返るべきじゃないか。スクリーニングは視聴者が決めるものだ。
という発言をしているところを見ると(「コントロールしたくない」の対象はメディア)、「世の事を決めるのに、正しいかどうか、もしくはあるべきかどうかは私にとってはどうでもよい。私はできるだけ空っぽでいたいから、関係のある人で適当に調整して決めてくれればよい」と言っているように思える。これは語弊があるかもしれないが、なんというか大変に日本的な物事の決め方というか、日本的な力構造のあり方というか、悪く言えば無責任主義を指向しているように読めるのだ。これまでは地域的に限定されていた「むら」をネットを使って日本中に拡げようと言うことなのだろうか。私は世の事が創発的に決まっていくと言う点はその通りだと思うが、一方でメディアに携わるものが純粋な媒介者になれると考えるのもナイーブに過ぎると思うので、社長の言っていることに理があるとはあまり思わない。それはともかく、日本の古くさい層に対立するものとされることが多いこの人が、実はこのような指向性を持っているというのは、面白いことだとは思う。



「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る
ニートのことはさておき、

「国旗・国歌には敬意を払うことを先生方が教えないと、教え子がひどい目に遭うこともある」と指摘。
誰がひどい目に遭わせとるねんって話だ。