海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

感想戦

立ち講義一コマ。喋りにすっかり自信のついたオレだけれど、本職の舞台に立つとあの冴えはどこにやら。ドヨンとした空気の中、一人荒野につぶやくオレ、と言った感じ。お座敷の首尾は、もちろん話し手に依存するわけだけど、それと同じくらい、いや場合によってはもっと重要なのが聞き手の技量であるという。そうしてツラツラいとうさんの何がすごいかと考えると、的確にポイントを突いた話の展開のさせ方(素人的立場に立つ聞き手の側でこれができるためにはかなりの教養が必要)はもちろんだけれど、こちらがゴニョゴニョと何か説明すると、必ずそこで自分の言葉で言い換えてくれるのがすごい。これをしてもらえるおかげで、視聴者の理解が立体的になるし、もし言い換えた言葉がずれていたとしたら、それは説明が不十分だった事を私に伝えてくれるわけだ。つまり、言い換えが、こちらが更なる補足説明に入るためのキューとして機能するのだな。で、これができるには理解力・概念把握力の高さと速さ、それとどんな話にも食いつく好奇心が必要で、誰にでもできるわけじゃないと思うのよ。いや改めて見返してみてホントにすごいよ。ドミューンを見てくれていた友人知人たちも一様に同じ感想を抱いていたし。

あと、以前から思っていた事だけれども、講義と言う場において対談形式が如何に強力な力を持つのかと言う事を今回実感できたのが私的には大きな収穫。で、どうしてこんなに強力なのかと考えて思いついた説明が二つ。一つは、対談形式だと内容のコントロールが完全にはできない事。このため話者はどうしてもアドリブで語らざるを得ず、その考えながら考えながらの語りのテンポに引き込まれて聞き手も自分自身でその事を考え出す、というような効果があるような気がする。昨今、大学の授業では学生に自分で考えさせる事の重要性がとみに言われるようになっているのだけれど、そのためには教卓に立つ側が自分でも考えて見せるのが一番だと言う。そして二つ目が、今回いとうさんが完全に素人の立場に立ってくれたおかげで視聴者はいとうさんの視点を借りて話を聞く事ができた事。これも以前から感じている事なのだけど、聞き手が同化するための視点を確保してやる事は、話をわかりやすくするための必要条件のような気がする。だけど一人で喋る時、その喋り手の視点に聞き手が同化する事は不可能で(それができるなら、そもそも話をする必要がない)対談ならその欠点を回避する事ができる、と、こういう理屈。どうでしょう?高等教育の質的拡充を望んでやまない皆さん、教員の数を倍増させれば、きっとうまく行きますですよ?