海の底には何がある

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「悠木まどかは神かもしれない」感想

「悠木まどかは神かもしれない」を読んだ。大きく誤解している事を承知の上で、内容を一言で言うと、草食系オッサンのファンタジーだった。主人公は進学塾に通う小学校5年生男子なのだが、この主人公が、進学塾に通う頭の良い子と言う設定のゆえか妙に大人びたボギャブラリーを備えていて、ちっとも子供っぽくない。そして、主人公たちは家と職場たる塾を往復するだけの生活をしているかのように描写され、帰りに立ち寄るハンバーガー屋には暖簾がかかっていて大将と飲み過ぎを注意してくれる女将が切り盛りしていて、常連がたむろっていると言う、つまりそれは居酒屋。これだけ揃えば、この主人公はオッサンサラリーマンの写し絵にしか見えなくなるのだな。いや、自分に引き込んで読んでるだけなのだけど。

そんな、社内政治の神経戦に明け暮れるサラリーマンたる小学生男子の前に現れるのが、頭脳明晰な美女なんだけど気っぷが良く、べったりした依存心や同化圧力のかけらもない、言わば草食系男子の夢の具現であるところの悠木ジョシだ。どうでもいいが、草食系って言うと、最近の現象をさす言葉のように思えるけれども、人の本性がそんなに簡単に変わるわけで無し、現在の草食系の若者と類似した気質を持った人はオッサン層の中にもたくさんいるはずである。で、そんな草食系オッサンの子供の頃は、やっぱり女子とは全く交わらずに教室の隅でチミチミした事ばかり男同士で喋っていたはず。それはともかく、この悠木ジョシにまつわるささやかな、本当にささやかな事件によって、未来を持たず社内の半径3mの人間関係の世界だけで生きていた主人公が、未来と外の世界に目を向けるようになる、という話。主人公は5年生なので成長譚になってるわけだけれども、じゃあさて、これがオッサンだとしたら、そのオッサンにとって悠木ジョシとは何なのかを考えてみるに、現実には悠木ジョシが現れてオッサンを成長させてくれるわけはないのであるよ。

さて、ここで唐突にオレ的ファンタジーの定義を開陳させてもらうが、それは、根拠無く何かが起るお話、の事である。そして起こった事が良い事の場合、それはしばしば奇跡と呼ばれる。で、奇跡とは、この世間で未来に目を向けるために必要不可欠なもの。奇跡を信じられるからこその希望であるよ。

で、さっきも書いたように現実のオッサンに奇跡など訪れない。しかし、オッサンとは都合の良い存在であって、少なくとも一部のオッサンは過去に奇跡を経験しているわけなので、現実に奇跡が訪れなくったって、その香りだけでも嗅げれば未来を展望するのに十分なのだな。いや、小学生と違って未来のスコープは短いし、時間の経つのは早いしさ。

というわけで、悠木ジョシは存在しなくても(存在されるとそれはそれでまた困った事になるし)、こんな本が1冊あればオッサンは御機嫌で世のために働けるのである、という、そう言う本。これが角川○○文庫とかじゃなくて新潮文庫から出ているのも私的にはそれで納得。

悠木まどかは神かもしれない (新潮文庫)

悠木まどかは神かもしれない (新潮文庫)