海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

百戦危うからず

何の因果か、アクチブラーニングの本を読んでいる。こんなに嫌いなのに。で、アクチブラーニングが外部への働きかけを通じて高度な認知機能を動かすようにすることを目的としていることがわかった。ここで、「高度な」と言ったわけだが、この語には注意が必要である。この「高度」は、社会的動物としての人間に備わっているという意味なのであって、それが望ましいことかどうかは状況によると私には思えるからだな。いや、私らの認知機能ってのは進化的にバイアスがかかっているわけで、それを現代社会でてらいもなく使うと副作用だってあると思うわけですよ私なんかのような捻くれ者はね。むしろ自然科学なんてのは、私らの自然な認知とは異なる思考が役に立つような面もあるわけでね。

私が思うに、そういう元から備わっている能力の開発ってのは家庭とか生活の中で培われるべきであって、学校での教育ってのは、そういうのから離れた知性に基づく何かを備えるために行われるもんじゃないかって思うんだけどね。でないと、学校はただでさえ息苦しくて逃げ場のない社会の負の側面が濃縮された場なのに、その最後の砦である知性の部分を削っちゃダメじゃん、っていう。