海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

数字は裏切らない

ヨメサンは3ヶ月に一度の議会が終わると、その時の内容を有権者に説明する報告会を開いている。まあそんなたいそうなものではなく、参加者は多くて10人くらいでほとんどは知りあい、というこじんまりした会だ。で、朝からパソコンとプロジェクターを抱えて会場に出かけていったのだが、しばらくすると電話が。HDMIのアダプターを忘れたから持ってきて、という。まあこの手のサザエさん並のイベントにはことかかない我が家であって、私もこれくらいでは驚かない。粛々と車で会場に向かう。到着して入り口に歩くと、知ってる人が待っていて「駐車場が埋っていて停められないと困るから受け取りに来たの」という。すみませんすみませんヨメサンたら私以外にも御迷惑を。しかし駐車場が埋っていて私が当惑する可能性に気がついたのはヨメサンらしからぬ心配りである。で、その方と一緒に会場までアダプターをお届けする中「いやあすみませんねえうちの人ったら粗忽で。ってかもう何回目だろうこういうことするの」っておちゃらけてみたら「数えるもんじゃないの」とぴしゃりと言われてしまって、大変恥ずかしかった、というそういう話。話題は相手を選ばないと。

今日の一日一善

なんとかオンデマンド授業の準備と原稿の改訂を終わらせた。で、新入生オリエンテーションがあって、私は今年は久しぶりに一年生の導入ゼミをやらされることになっているので顔合わせがある。気が重いのだな。この科目ってのは通常、大学で学んでいくためのスキルを身に付けることを目的としているわけだが、私がいるところは文系メインであって、そもそも私自身に文系大学で学ぶためのスキルがないわけですよ。例えば有効数字の何たるかを教えて彼女らの役に立つとも思えない。段落最初の一字下げだって、インデント機能で行うべきであって、空白文字入れると逆に面倒くさくなる、という私の理解を伝えたら混乱は必至だ。ということで、ここしばらくはうまいことこの科目の担当を逃げていたのだけど、多数派の人ってのは自分の知ってる世界がすべてだと思いがちであるから、私が文系学部で学ぶためのスキルを備えていないことがどうにも理解できないようで、今年は科目を振られてしまったのである。気が重い。さてAppストアでソフトを買おうとする。このときApple Accountに残額があると、ここから優先的に支払いが行われる。で、Appストアでしか買えないソフトに研究費を使おうとすると少し厄介になる。領収書の宛名が大学でなく私の住所も表示されてしまって、頭の固い事務方がそれではダメだというのである。とはいえ事務方にも知恵者がいて、去年FinalCutProを買った時に、その値段とピッタリ一致するようにAppleのバリアブルカードを購入して、その領収書を大学宛にする、という方法を考えだしてくれたのである。もう素敵。事務の鑑。ところがその事務さんが去年の末に退職してしまった。ということで、また何が起こるか分からないので、新しくソフトを買おうと思った私としては、念のため「これこれこういう風に買おうと思っていて、去年も実績があるから買っていいと思うんだけど、かまいませんか?」とお伺いを立てる。ホント無駄な作業だと思うのだが、こうしておかないと足をすくわれかねないという現実には対処せざるをえない。そしたらなんと、買えない、と来た。ほらやっぱり何が起こるかわからない。で、どうせまた、新しい人がこちらのやりたいことをちゃんと理解できず、理解できないうちにとりあえずダメ、といっているに違いないので、去年もそれで買えているので記録を調べて欲しい、とお願いすると、確かに去年の記録はあるけれども、それは間違いだったのでダメ、とか言いだす。何これはどういうことだ?と思って、まずは絡め手から攻めてみようと思い、必要なものを買おうとしてるんだから、ダメっていうだけじゃなくて買える方法を教えてくださいよ、と言ったら、アカウントを別に作ってそこからクレジットカード払いをしたら?と言われるのだが、同じMacで複数のアカウントを切り替えて使うことの面倒くささを考えるとそんなのかなわんのである。そういうと、でもAppleのカードのような有価証券は買えないルールになっている、という。ルールであることを理由にして不便を強いてくるのは退廃であるから、これには強く反発せねばならないので、「そんなルールは変えればいいじゃないですか。あなたは私に、不便を受け入れてアカウント切り替えをすればいいじゃないかというけれども、私がそうしたらこのルールがずっと続いてしまう。今回、私はそんな不便に耐えるくらいなら研究費購入を諦めて自腹で買うけど、あなたは事務方としてこのルールを変える努力をして欲しい。それが仕事では?」というと、なんだか向こうもエキサイトしてきて、でもルールはルールなので、とか言うので、いやそんなこと言うてるんじゃない、とこっちもエキサイト。そもそもなんでそんなルールになっているのか?と問うと、有価証券を買うと年度間で繰り越しができてしまうから監査で問題になるからだ、という。いや、そんなんね、見て、この去年の書類を。45000円コンビニでカードを買ってね、その日のうちにAppleストアで私のアカウントから支払いが起こってるでしょ?これを見たら繰り越しになってないって十分説明できるでしょ?説明できない支出がダメなのは分かるけど、説明できるなら監査も問題にならないでしょ?というと、このケースではそうかもしれないけど、そうでない場合もあるから有価証券は買えないルールなんだ、とまた声のトーンが上がってくる。で、でもこう買えば繰り越しにならないじゃないですか、と言うこちらの主張とルールはルールだからと言う向こうの主張で水掛け論が続く。と、ふっと向こうが「でもこの時は確かに45000円の商品に対してぴったりの額のカードを買えているけど、そうじゃなければ、例えば5万円のカードを買ったら残りの5000円は繰り越しになるでしょ?」と言いだす。いやだから、そんなことはありえないんだ、って言うと、なぜだ?という。だって、45000円の商品だってわかってから、カードを買いに行くんだもの。と言うと、急に向こうの態度が軟らかくなる。どういうことですか?と。ここで判明したのは、向こうがバリアブルカードの何たるかを分かっていなかったことである。なので、例えば35412円の買い物をするのに4万円のカードを買わなきゃいけないと思い込んでいて、なので繰り越しが発生しかねない、と主張していたらしいのである。「ひょっとして35412円のカードを買うこともできるのですか?」「できますよバリアブルカードなんだから」「ならコンビニ払いに似ていますね。繰り越しにならないのか」「いや、だから最初っからそういってるじゃん」。ということで、まだ結論は出てないけど、それなら買えそうだということでいったん持ち帰ってもらうことになった。ということで、私のレッスンとしては、理不尽なことを言われたときに戦うのが面倒だからといって簡単に引き下がってはいけない、ということである。そして、事務方に願うべくは、とりあえずダメという姿勢でことに当たらないというレッスンを得て欲しいことである。ってか、何度目だよこういうのでバトルのはよ。

残され組

ぶーちんの入学式。ヨメサンが参加している。考えてみれば、私自身の大学の入学式はボンヤリしているうちに遅刻しちゃって出れず、子どものは二人とも出なかったわけだ。なので、大学生の入学式というのがどんなものかは知らない。いや、正確にいうと、教員として出たことは何度かあるけど、ああいうのは大嫌いなので出席をしいられた時は心を無にして対応するので、ちゃんとした出席者としてどんな気持ちを抱くものなのかを知らないのである。どうでもいいことですね。ということで、この三日間の晩ご飯はイノシシ肉の野菜炒め、豚バラ肉と菜の花の炒め物、蒸し鶏、というラインナップだったのだけど、これまでのヨメサンいない飯が3人分作っていたところを今回は上の子と自分の2人分になったわけだ。こうなると、なんかご飯作るのラクチンだわ。そのうち上の子もいなくなっ、二人飯が常態化するわけで、まあそれはそれで身軽になることであるなあ。洗濯とかも楽だしねえ。つうことで、夜ヨメサンを迎えに行く。北海道のおみやげといえば北菓楼のシュークリームであって、これからは頻繁に食べられることになるのであろう。

距離感

朝から雨。上の子は大学に行っちゃって、家で仕事の私は一人。先週戻ってきた原稿の改訂作業が捗るよ。で、夕方、晴れている来たの大地からヨメサンからFaceTime。超古巣の同僚だったT澤さんが北の大地大学にいるので、昨日ヨメサンが急襲をかけたのである。T澤さんたら、突然の訪問に目を白黒だったそうだが、そういうわけでぶーちんのオリエンテーションが終わった今日の夕方にお茶をしようということになったと昨日聞いて、一瞬「朝飛行機に乗れば間に合うなあ」とか思ったわけだけど、オレも歳だし自制が働いてネット越しで混じることになったわけ。便利な時代だよ。で、T澤さんと雑談するのってムチャクチゃ久しぶりで、そもそも最後に会ったのも、それこそ5-6年以上前にどこかの学会でホンの一瞬すれ違っただけじゃなかったかなあ。ということで、なんか一人寂しく暗い家でキーボード叩いてしょんぼりしてた気持ちが晴れやかになって、喋っているとなんか向こうでT澤さんの知り合いの院生さんがたまたま通りかかって、会に混じってくれる。ああ、こういうのがUniversityであるなあ、と思って懐かしくなる。私は就職して以来、そういう環境とは縁のない生活だったので忘れていたよ。で、その院生さんにT澤さんが、ヨメサンとぶーちんを紹介して、スマホの中の私のことにも触れてくれたので、「こんにちは」って挨拶したらば「ああ、クモの研究している人ですよね」と言われて仰天する。「なんでわかるんですか?!」「一度オンラインセミナーを聞いたことがあって」みたいな。何という時代でしょう。ビックリした。しかしスマホ画面の小さな顔を見ただけで、一度オンラインセミナーを聞いただけの人の顔をよく認識できたなあ。ということで、それから小一時間ほど北の大地の大学生活についていろいろ教えてもらった。ぶーちんもなんか楽しそうにしていたらしい。まあ、まったく縁もゆかりもない土地だと思って行ってみたら、なんか親の友達とかその友達とかわらわら来て連絡先交換させてもらったりしたら、ちょっとワクワクするわね。わかるよ。ってか親としてもうれしいのよね。

今日から3人

ぶーちんが大学に受かって北の大地に旅立っていくのである。ということで、新生活の立ちあげの手伝いでついて行くヨメサンとぶーちんを、朝、上の子も一緒に最寄り駅まで送っていく。東京(多摩だけど)にいた2004年の10月から続いた4人での暮しも一区切り。もちろんいつか来ることではあるけれども、まあ少し寂しいよね。なんでも北の大地では、学生会館と呼ばれる民間経営の賄い付き寮がたくさんあるらしく、ぶーちんもそこに入ったので完全な一人暮らしよりは安心なのだけど、ちゃんと一人で暮していけるかなあ、とか心配するのが親と言うものである。まあ、だいたいにおいてこれは杞憂であって、親が思っているより子どもはずっとしっかりしている、というのは頭では分かっているのだけど、しかし親というのは子が赤ん坊として生まれてきた瞬間に刷り込みが成立するわけで、オレなんか19年間ずっとその刷り込みの支配下に置かれているのだ。心配するなといっても無理である。刷り込みだから一生続くんだよ。そういうもんだよ。

小手抜き面

新年度で、新しいポジションについた、みたいなことをいろんな人がTwitterで書いているわけだけど、私的には何の代わり映えもしない4/1でつまらない。そんな中、先週突然某出版社から連絡が。しかもハイブリッド学会大会のオンライン用サイトのメッセージ機能を介してという。へー、この機能にも使い道があるんだなあ、と思ったり。で、とある企画についての相談をと、ということで、zoomでお話するのが今日。小一時間ほど喋って、その企画は難しいんじゃないですかねえ、的な意見を述べる。私的にはあまり否定的なことを言うのは好みじゃないのだけど、なんつうか役割的に仕方なかったのよごめんなさい。ということで、出版社の人に対して何か負債を負ったような気持ちになってしまい、私は借金が大嫌いな性分なので、何かお返しをしなきゃいけないと思ってしまったわけだ。そこで手持ちの企画ネタをぽろっと喋ってみたらばエライ受けてしまった。持ち帰って提案してみるとのこと。自分的には割と大事にしているネタのつもりで、タイミングとか考えずにここで切っちゃって良いのか?と思うところもあるのだけど、まあ、つまらないつまらないと言っていても仕方ないので、考え無しに流されるくらいでちょうど良いかもねえ、という。

脇役として

センス・オブ・ワンダー」を読んだ。レイチェル・カーソンのを森田さんが新訳したものだ。で、知らなかったのだけど、本文自体は短いものなのだな。一冊には足らない。そこで森田さんのエッセイが加えられているのであった。レイチェル・カーソンのも森田さんのも、子どもと一緒に身近な生き物を見て一緒に驚き不思議を感じることについての文章になっている。私は行動学かつ裏庭の生態学の人なので、ここに書かれているワンダーについては身近なもので、というか、人生の柱になっているようなところがあるのだけど、加えて子どもを育てた経験もあるわけで、子どもが生き物に触れる時の様子もまた良く知っている。この本は、今やすっかり忘れてしまっている、その時の気持ちを思い出させてくれた一冊となった。忘れるのは子どもも同じで、ウチの子のうち上の子はまだしもぶーちんは今やまったく生き物に対する興味を持っていない。それについて、レイチェルカーソンの文には(森田さんも書いているけど)小さい時の子どもが、その生き物に対する感受性を失わないためには「生きる喜びと興奮、不思議を一緒に再発見していってくれる、少なくとも一人の大人の助けが必要」とある。してみると、ウチは私が必ずしも上手くやれなかったということかもしれない。下の子にはどうしても手薄になる。それはともかく、森田さん自身はそれまで生き物にまったく触れることのない生活だったところ、お子さんのおかげで生き物に向かう目を持つようになったそうである。昔から思っているが、小さな子を育てる親は、みながその人なりに生物学者になるのであるなあ。さて、森田さんはお子さんと見つけた生き物の写真を時々メッセで私にも共有してくれているのだけど、エッセイ部分には、あ、これあの時に見せてもらったやつの話だ、というところがポツポツ出てきて、その時のことを思い出したり。自分の関った話がこうして本に書かれているのを読むのは良いものですね。