海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

反芻

擬人化は忌避すべきものだと科学は教える。しかし、動物行動学などやっていると、事はそう簡単ではない。動物の行動を観察する動機の本当のところは、ローレンツではないが見ている動物の心の動きを知りたいということにある。で、他の生き物の心の中を知るのに、自らの心の働きを援用する以外に何か方法があるのだろうか?というわけで、擬人化を100%心の底から徹底的に否定できる人は、動物行動学に向いてないんじゃないかと私は秘かに思っている。もちろん全ての生物学者が動物行動学者である必要は無いのだが。

一方、擬人化にはもっと積極的な意味があるのかもしれない。話がいきなり大風呂敷になるが、近い将来人間はエネルギーと物質の消費を持続可能な定常状態に持ち込まなくてはならないだろう。で、それはクラッシュの形で現れるか、自発的に消費量を抑制するかのどちらかである。私は後者が望ましいと思うのだが、じゃあどうやって自発的に欲望の充足をコントロールしていくのか、つまりは便利な生活を我慢していくのか、という事が問題になる。人間我慢は嫌いである。ウチの子なんて、最近はちょっと何か我慢させようとすると、途端にキーキー泣き叫ぶのである。でも、もちょっと考えてみれば、人間は自分が我慢する事で得をする相手がいて、その相手の事に好感を持っていれば、結構我慢もできるものだということに気が付く。ということは(いいですか、ここが論理の飛躍ですよ)、人間が我慢する事で自然環境が守られるのであれば、自然に対して好意を持つ事ができれば、我慢も容易になるはずだ、ということになる。で(さあ、もう一回高く飛びますよ)、自分と似た属性を持つものと、似ても似つかぬものとどちらに好意を抱きやすいかというと前者であって、自然の中で暮らす動物を擬人化の対象とする事で、人間と自然がかけ離れたものではなく、連続しているものだと理解できるなら、そうでないときよりもずっと人間は我慢が出来るようになるのではないか、と。別の言い方をすると、人間概念をチョト拡張してやって、動物も人間みたいなものだと思えば(動物の権利だとか主張しているわけではないが)、そうそう自然を無下に扱う事も出来まい、という。これはいつかの日記でも書いた「艦隊の誓い」の考え方と重なるのである。

もちろんこれは90%与太話の類であるが、10%くらいは本気でそう思っていて、実は今書いている学会誌用の日本語原稿の中に盛り込んでやろうか、でもこんなの書いたらアホかと思われるだろうかと思案投げ首しているのである。で、締切りは10月初めなので、今日は一日キーボードをペコペコ叩いていたのだが、夕方に全く私のあずかり知らぬ事情で締切りが一月伸びたという連絡が入った。わーい、ちょっとホッとしたアル、という話。長かったね。どうでもいいが、私もよく昼間に散々っぱら書いていた事を、夜になってまた日記で書こうと言う気になるものだ。まあ、繰り返しているうちに段々アイデアも練られてくるものだけれど。


ちょっと前にmixi云々の事を書いたけど、こんな私にもわずかに友達がいて、お誘いを受けたので数日前にありがたく登録。ハリガネムシリンク元と思われるところを見て回った。で、改めてその日の自分の日記を読み返して、もう誘ってもらう気満々の文章であった事に気づき深く恥じ入る。


id:m-urabeさんのところで紹介されていたページ
http://courses.missouristate.edu/mcb095f/gallery/
特に
http://courses.missouristate.edu/mcb095f/gallery/ouachita/kidneyshell.htm
とか
http://courses.missouristate.edu/mcb095f/gallery/Psubtentum/fluted.htm
ここに紹介されている二枚貝は幼生の詰まった袋を作るのだけど、それが魚の稚魚や水生昆虫のような形に擬態していて、餌と思った魚がパクッとやると中から幼体が飛び出てきて魚に寄生するという。あんまり凄いのでビックリした。どうでもいいけど、なんか最近寄生生物の話題が多いなあ。