海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

トンビはタカを生まない

最近小学校界で二分の一成人式というのが猛威を振るっている。10歳の年に、感謝の言葉を述べたり将来の希望を語らせたりして、うかつな親御さんもう感動、というやつだ。で、世を拗ねる私としては当然こういうのには反発心を覚えるわけで、なんで大人になるための通過儀礼を二度もやるねんな、それって通過儀礼の意味を薄れさせてることに他ならなくって、つまりは大人になりたくないという幼児化の現れなんじゃないの?とかイヤミなことを思ったりする。

それに、こういう学校行事の常であるが、こういう時には綺麗事言わなきゃいけない的な同調圧力が発生しやすくなるのも私の嫌うところだ。実際、上の子は二年前、「賢い人になりたい」とかしか書いてなかったところに、思ってもいない「優しい人になりたい」てな一文を書き加えられたのだとか。

で、ぶーちん10歳だ。一昨日、「そういえば明後日は授業参観」という話になって、でもぶーちんは「来てほしくない」とか言い出すのだな。なんで?と問うと、二分の一成人式だからだ、と。今年は誰かに漢字一字を送るという趣向で、そんなん言われても何も思い浮かばないぶーちんは先生に示唆されるまま、親への感謝という意味で「謝」にしたんだそうだが、そのウソっぽさがイヤで見られたくないらしい。

ここに来てワタクシのヒネクレ心が炸裂して、「おい、ぶーちん、それは悪とかにすべきだったぞ。『こんな風に子供が欺瞞を強いられる二分の一成人式を推進するすべての大人に"悪"という字を贈ります』っていうのはどうだ?」と煽ってみた。いや、だいたいこのくらいの年の子が親への感謝の気持ちとか持ってたら気持ちが悪いし、親の立場からはそんな感謝なんかいらないから健康に育ってくれれば十分なわけ。そんなところに作られた感謝の気持ちなんて持ち込んで欲しくないわな。っていうか、学校のような公的な空間では、感情とか倫理観とか人の心に関することに介入するべきじゃないのよ。道徳の教科化とかもってのほか。

それはともかく、そしたらぶーちんその気になって、「そうだ!二分の一成人式なんて変だから"変"の字にする」と言い出した。うんまあそれはお父さんのテイストにはあうけど、それを出された時の教室の気まずい雰囲気を想像するに、やっぱちょっと不安になるよ。

そしたら、ぶーちん「だいたい『日頃思ってても口に出せない気持ちを書きましょう』とかいわれたけど、ボクはうちでいつでも思ったことを言ってるし、いまさら言いたいことなんて無いよ。あ、じゃあ"無"はどうかなあ」とかいうので、おおそれは素晴らしいアイデア!授業の趣旨の枠内に止まっているにもかかわらず、親への感謝の強要という隠れた欺瞞を見事に撃ち、更に安易な感動に回収されることの回避にさえ成功している!と絶賛したらば、ぶーちんすっかりその気になって、じゃあ参観までに先生に言って"無"に変えてもらう、と、大張り切り。先生も困るだろうなあと思いつつ、でもこのくらいはぶーちんの健やかな成長のためだから許して、と思うのであった。

で、今日が本番。こんなことがあっては論文のリバイスを一時中断してもなんとしてもその場にいなければならないじゃないか。ということで教室に入り心なしか緊張しているぶーちんを眺むる。するうち子供らの発表が始まり、"優"とか"笑"とか、"謝"もあったな、とにかく歯の浮いたフワフワした発表が続くわけ(これは別に子供が悪いわけでも先生が悪いわけでもなく、二分の一成人式というコンセプトがマズいんだと思うが)。で、やっとぶーちんの番で、一昨日言ったようなロジックをよく通る声で見事に発表。一部のお母さんの笑いまで取ったという。偉いぞぶーちん。同調圧力やお約束に流されることなく、自分の違和感を立派に表現した(わかってもらえたかは別だけどな!)。願わくば、ぶーちんの行為が何かを中和するような効果を他の子にももたらしますよう。

しかし、授業が終わって、その中で二分の一成人式という言葉は一度も使われなかった。ぶーちん、先生に文字の変更を訴えた時に、こんな記事のことを持ち出したらしく、先生は後からググって中身を読んだらしい(ヨメサン談)。ひょっとしてその効果で何か軌道修正が図られたりしたのだろうか。