海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

カルト

こないだから過剰部活問題のことをずっと考えている。勝利のためと称して長時間の練習を行うというあれだ。今の知見では、適度に休息を取ることが運動能力の向上に資することは常識なのに、なぜ長時間練習が無くならないのか。長時間練習をするものの理屈としては、厳しい練習に耐えることで根性や高い精神性が身につき、それが勝利に結びつくのだという。これって、戦前に見られた軍部の精神主義と何も変わらないわけで頭を抱えるのだが、厄介なのは、確かに長時間練習は勝利に結びつきやすいのは確からしいことだ。統計でも、普通の部活の平均練習時間が4時間弱なのに対して、県代表レベルだと6時間を超えるということが知られている。で、勝利至上主義批判を根拠に過剰部活良くない、と主張しても、「別に勝利のためにやってるんじゃなくて精神性を高めるためにやっていて結果は後からついてきているだけだ」とか言われてしまうわけ。

だけど、厳しい部活に耐えることと高い精神性を備えることに、本当に因果関係がはあるのだろうか?どうして長時間練習が勝利に結びつくかというと、実はそれはただのモチベーションの影響ではなかろうか。動物の闘争ではその勝ち負けにモチベーションが大きく関わる事はもう常識だが、もしヒトでもそうだとしたらどうだろう。長時間練習はあらかじめ多大なコストを払わせる事で、心理学的にself-justificationと呼ばれるプロセスを引き起こす。これは過去のコストが無駄になることを嫌って、現状では不合理とも言える意思決定をしてでも報酬を求めてしまうことで、コンコルドの誤謬的なことだ。で、これは過剰部活の局面では、何が何でも勝利したいというモチベーションを発生させ、勝率を引き上げる、というメカニズムだ。ヒトはコスト構造に敏感に反応する精神的傾向を持っているわけで、長時間練習は部員のコスト構造をいじることで自発的に勝利部活至上主義に向かわせるという手法なのかもしれない。これが正しければ、長時間練習が生徒の成長のためというのは欺瞞であるように思われる。むしろ、マイルドな洗脳であると言ってもいいのではないか?

そう考えると、長時間部活で成果を残した生徒も、単にその時のコスト構造に反応しただけで、高い精神性を身につけたから勝ったのではないと言えるだろう。だから、コスト構造から解放されたらただの人だ。そんなことに若い時の貴重な時間を莫大に投じることに意味があるのだろうか?

そもそも、誰だって本当に必要なら皆同じように必死になるわけで、精神性に優越があると考えること自体が不遜なのではなかろうか。旧軍の惨状を思い出そう。で、ということは、そうして出した結果は、単に他がそこまでひどい手法を取らなかったからであって、実はズルの表れと言えたりするのかもしれない。というわけで、私的には過剰部活の教育効果に反論する理路をきちんと得たと思うわけ。