海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

スポックの不在

ネトフリで「寄生獣 −ザ・グレイ−」を見る。寄生獣というと、原作マンガは傑作中の傑作。一方、映画化された作品は、予告編を見るだに雑に作られてるっぽく、原作の激ファンであるところの私としてもちょっと見に行く気がしなかったもので、っていうか、なぜこの傑作マンガを汚すようなことをするのであろう、と思っていたわけだ。なので、今度は韓国を舞台に連続ドラマとして映像化されたと聞いても、最初は食指が動かなかったのだな。けど、たまたまネットに流れてきた一部シーンの映像を見て、あれ?これは意外と丁寧な絵づくりではないか、と気がつき、韓国で作られてるのなら日本の映像化みたいな悲惨なことにはならないかも?と思って、見始めたのだな。そしたら面白かった。原作の設定を借りてはいるものの、舞台は韓国で登場人物も一から造形されていて、新しい話として作られたのが、まず第一の成功の要因だと思われる。こうすることによって、原作を知っているものが映像化作品にどうしても感じる違和感を回避することができるわけだな。一方で、原作の設定からはまったく逸脱せずに話を転がしているわけで、見る側としては「わかってるじゃん」という満足感も得られる。設定は同じなのだけど、主人公の属性が微妙に原作とずらしてあるところがまた上手なところである。泉新一とミギーのような同時に両者の意識がある設定ではなく、主人公とパラサイトの意識が同時に存在できない、というように設定を違えているわけだが、こうすることによって原作にあった人間とパラサイトの対話ができないようになっているのだな。原作ではこの対話があることによって、ミギーの主人公性が強くなっていて、っていうか、泉新一はミギーというかパラサイトの側にいったんは行ってしまいかけるとこまで描かれているのだが、今作ではそういうことが起こりえないようになっている。で、人間側に主人公に密接に関係してそれを助けるキャラクターを配置することで、本作は人間視点から語られる物語になっているのだな。これは感覚的に受容される映像作品(しかも連続ドラマ)の作りとしては適切としか言いようがない。原作のような人間ならざるものからの視点によった話は哲学的で、まあ映像を見る人に広く受け入れられるかというと難しそうに思われる。つまり、本作は映像化作品であるにふさわしい主人公の属性の設定が行われている、ということで、まあなんというか感心するわけだ。ただし、このことによって、原作にあった、人ならざるものから見た人間性賛歌、というテーマを描くことが構造上できなくなったという面はある。まあとはいえ、良くできた作品だと思う。楽しめた。