海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

独りよがり

大学近くのイタリアンで、職場の飲み会というか食事会があった。この店は、ついこないだもヨメサンとランチとしゃれ込んだところ。そのときは、何でもない日にヨメサンとデートした事になんだか嬉しくなって、午後の講義が自分的には絶好調。やはり芸事の首尾には、演者の気持ちのありようが効いてくるよなあ、と思ったのだ。

で、前にも書いたけれども、その日は大学の授業参観ウィークで(そういうのがあるのですよ今どきは)、保護者が教室に見に来ていたので、そんな日に会心の講義が出来たのだから、なんてタイミングの良かった事でしょうと思ったわけ。

そして今日の事。その授業参観の感想集がまとまったらしく、私のいる部門の長であるところの先生は、下々の者より先にその中身を目にしたのだな。先にも書いたようにその日の私は主観的には絶好調に講義を進めていて、そういうときは喋りながら新しい事を次々思いつくわけで、アドリブでいろんな事を言う。で、アドリブだから細かいディテールの裏取りなどできていないのだけど、「細かいところは今パッとは思い出せないんですけど」とか言いながら、概要だけでもと話をする。なぜかと言うと、それによって本筋が膨らんで、聞き手がその本質を立体的に把握するのに役立つだろうと思うからだな。そしたら、長であるところの先生の話だと、「思い出せないとか言いながら話すなんて、授業の準備を怠っているのではないか」という感想が保護者から寄せられたのだとか。

と言う事で、彼我の認識のギャップに脱力してへにょへにょになったのである。でも、私は見てたんだよね。その日私の講義を参観した保護者は一人だけで、その人が講義の途中に堂々と机に突っ伏して長い間寝てたことをね。

ともかく、昨今のシラバス絶対主義でもそうだけれども、講義というものは、内容が全てあらかじめ定められていて、その定められた情報を効率良く頭の中に流し込むためのものでなければならない、という考え方ってどうなのだろう。それは本質的にライブであり、だからこそ効果を発揮する生き物であるところの講義の存在を否定する事になってるんじゃないかなあ。