海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

クジラは魚である

子供の頃天文学者になりたかったけど、それを断念したのは超弦理論を知ったからだ。それが正しいのかどうかは子供だったのでよく判らなかったけれども、11次元と言われてしまってはもうその正しさを判別する事の意味が見いだせないと思ったのだな。よしんば11次元が正しかろうが、人間である私には全くどうでも良いじゃないか、と。それで生物学に転向したわけ。生物学なら人間の世界と地続きの場所で科学ができるじゃないか。それが意味のある科学ってもんだ、と子供ながらに思ったのだな。だからこそ、生物学でも生態学とか行動学とかのマクロ系に進んだのだ。そう思ってるのに遠心分離器回したって仕方ないやんか。でも、最近はそんな風に考えているのはどうも極めて少数派っぽい事に気がついて、少し愕然としていたりする。

ということで、分類学が私たちの直感(本書中では「環世界センス」と呼ばれる)から離れて客観科学化されていく過程を、ある種の嘆きを持って描き、最後には私たちの幸福の名のもとに科学を相対化する「自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか」を読んで、我が意を得たりと思ったわけだ。いや、私は以前から科学と言うのが好きでたまらない一方で、その傲岸不遜ぶりを疎ましいと思う部分もあって、1人アンビバレンツな気持ちを抱えているのだけど、きっとこの本の著者さんもおんなじ思いを持ってこの本を書いたに違いない、と、そうかオレは1人じゃなかったんだな、と。

ちなみに、分類はヒトの心の中にあるものだから、生物にしか興味のない人にはこの本の面白さはわからないんじゃないのかな、と思う。この本に書かれている事はヒトの心の事ですよ。

どうでもいいが、私の学生の頃にこの本があったら、かの「脊椎動物学」のレポートもさぞかし書きやすかった事であろうよ。

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか