海の底には何がある

これは日記だ。ブログじゃない。

主語を明確に

英語で科学記事を読む授業をやっていて、口を酸っぱくして言っているのが、英文を見ないと意味はわからないよ、ということ。英語に苦手意識のある学生に文を訳させると、多くが辞書で引いた単語の集合を前にして、それをなんとか意味のあるように再構成しようとする。

単語の塊から意味を作るには、単語間の関係を明示する必要があるのだけど、英語でその役割を担うのは語順。一方、日本語では助詞が担うから、語順はどうでもいい。で、英語が苦手な学生はここがわかっておらず、日本語のつもりで訳そうとするものだから、存在しない助詞を自分で補おうとして、四苦八苦する。当然おかしな訳になることも多いわけだ。

なので、私は「語順が大事だから、語順は英文にしか書いてないから、英文を見ないと意味はわからないよ」って言うのだけど、苦手意識のある学生はできるだけ英語を見ないで済ませようとするので、なかなか自己流解釈を改めようとしない。

このやり方のもう一つの弊害というのが、助詞を補うための基準が自分の中のものしかないことだ。つまり、自分の理解していることしか再構成できないのだな。読むという行為は、知らないことを知るために行うのだと思うのだけど、こういうことされちゃうと、なんのために科学記事を読んでるんだかわからん。

っていうか、このような行為は別に英語を読む時だけじゃないんじゃないか?と今日授業しながらふと頭に浮かんだのだ。いや、学生の保守性(政治的な意味じゃなくて生活上、というか知識獲得に対する欲求の少なさを含む、何か世界を広げていこうという気概の弱さ)に対してお嘆きの同業者は多いと見受けられるが、その根底にあるのは、こういう日本語の持つ単語間の関係を文脈で補わなきゃならない傾向の強さではないか?と思ったという。で、これって過剰な同調性というか、空気を読む能力の高さとも通じる何かかもしれんなあとふと思って戦慄したわけ。知らんけど。